マイストーリー

ピアノをはじめるキッカケ

生まれた時はお腹で育ちすぎてしまい、4キロ近くあるビッグな赤ちゃんで、かなりの難産だったらしい。
大きく生まれたが、小さく育った。
人見知りを知らず、どんな人にもニコニコしていた。
1歳半で母が妹を妊娠している時に3週間入院している時には、父方の祖母にすっかりなつき、母の顔は忘れてしまったそう。
母がレッスンしている時も、生徒さんの保護者と仲良く遊んだりととにかく手のかからない子だった。
しかし、身体は弱く、ことあるごとに熱を出したり中耳炎になったりした。
母は自分が大変な思いをしたため、私にピアノをさせる気はなく、自由な幼稚園で本当にのびのび育った。
ところが、幼稚園年中の時に祖母がなんでピアノがあるのにやらせないのか?との一言で 習い始めることになった。
幼稚園のヤマハ音楽教室に見学に行ったが、あまりにレッスン生が弾けていない姿に母ががっかりし、一緒に見に行った幼馴染と私の2人を母がグループレッスンで受け持つことになったことが、私がピアノを始めたきっかけとなる。

小学生 恩師との出会い

2年間幼馴染(男子)と共に2人で母にレッスンを受け、小学校からは各々個人レッスンに移行。
2年生の時に母が親子での師弟関係に限界を感じ、近所の方に紹介され習いに行った先生は優しすぎて、あまり上達しなかった。
その先生の自宅発表会では、やはりあまりにレベルの低い演奏にびっくりしやめて、また母に戻った。
小3の時に、初めてかながわ音楽コンクールを受けた。
もちろん予選は通らなかったが、予選の講評に【子供らしい自然な音楽🎵】と書いていただいたことが今でも印象に残っている。
こうして、私のコンクール人生は始まった。
小4の時に、かながわ音楽コンクールで弾いた「そよ風のたわむれ」であまりに美しい音と感動した母が初めて私の演奏で涙を流し、予選を通過した!
その時、会場に偶然母の恩師が来ていて、熱望されてその先生のところにも通うようになった。
2年間通ったが、とても厳しい先生で小学校卒業と共にその先生のところは卒業した。
中学になり、母から「もうコンクールも出なくていいしあなたはピアノは好きになれない」と言われたが、自分の意思でもっと頑張りたい!と意思を示した。 そこで、母がピティナの先生を探して通ったのが恩師の今野早苗先生。
コンクールに特化した先生だったので、コンクールを受けるのが当たり前、の世界に突入。
中2では、連弾、2台ピアノ、ソロといくつもかけもちする。
予選の二週間前に指を脱臼し、最大の危機に陥るが、近所の整骨院の先生に助けられてなんとか出ることができた。
そこで初めて本選で入賞する。

中学~高校生 ピアノとの関わり方に模索

中学の勉強、部活、ピアノの三両立はなかなか大変で、偏頭痛を起こすようになる。
また、中学校のカーストで辛い思いをする。
中学では、放送部で活躍。 朗読部門で県大会入賞。今の仕事にも繋がる学びを得る。
中3の時、素晴らしい担任の先生に出会い、そのクラスでピアノを認められ、合唱祭の伴奏でクラスのみんなに認められる。

高校は、運良く前期入試で合格し、自転車で通える第一志望の公立高校に入学。
通学時間が短いことから、ピアノも頑張る約束が、チア部に入りおおいに高校生活を楽しく過ごす。
両立が難しく、母と揉めた末に高1で1ヶ月ピアノを休会する。 が、恩師の「後悔のないように」の一言で復帰。
チア部で楽しみながら、コンクールも出ていた。結果は中々出せなかったが、高2の時に音大受験を志望する。
ところが、音大受験の条件として母から「コンクールの予選通過」を科された。
当日参加票をなくし母と大げんかしてしまい、課題曲のハイドンを倍速で弾き、もう無理!となっていたが、知らない女性に、「あなた楽しそうに弾いていたわよ、と声をかけてもらう。
結果、運良く通過することができ、準本選の曲を4日で暗譜して臨んだ。その時が人生でいちばん弾いた思う。

音大受験 苦戦する日々

音大に進むことを許してもらったが、聴音、ソルフェージュをやっていなかったので大変なことに。
英語もセンター利用だったので、通い始める。
とにかくセッパつまっていたが、母と恩師の絶大な協力により第一志望に合格。

大学~社会人時代 ピアノと離れた日々

大学では、良き友に恵まれて切磋琢磨に充実した時間を送る。
人格的にも尊敬できる恩師のもとで成長した4年間。
将来は音楽に関する仕事に就きたいという漠然とした目標を掲げて音大に入学していたが、大3で自分の進むべき道に悩む。
決して自分はピアノのエリートの道を進んできた訳ではないので、その時はまさか自分が憧れのピアノの先生になれるはずがないと思っていた。
ただ、母にピアノの先生になるとしても社会人経験はした方がいいという言葉から、一般就職をする決意をする。
それからは大学の就職支援を活用しながら、インターンや説明会等、一般大学の人と同じように就活をした。
就職してもピアノは続けたいという想いから、最終的には地元の金融機関に的を絞り、いくつか内定をいただいた中から就職先をきめた。
支店のテラーに配属されたのだが、まさかの片道1時間かかる場所(車だと20分)。
さらに大型店舗で忙しく、残業は当たり前の毎日。 厳しい上司にやられてメンタルがボロボロの日々が続く。
2年目に窓口コンクールに出場することになり、毎日残業後にコンクールの練習。
優しい先輩や上司に支えられ、無事3位入賞。窓口でオレオレ詐欺を未然防止し、表彰されたこともある。
3年目の春に本店に異動が決まり、今までとは全く違う業務内容に戸惑う。
支店の職員から電話での質問に的確迅速に応えたり、講習の講師として人前で話したり、支店に送る業務連絡をWordで作成したり…等仕事の幅がまたまた忙しい部署だった。ただ今思うと、社会人として必要なスキル(PC作業、人前で話す能力、電話対応)をそこで学ばせてもらえたのでとても有り難く思っている>
就職するときに、大学の恩師から「3年は続けなさい」という言葉を胸に頑張っていたが、だんだんと仕事のやりがいについて疑問に思ってきた。
職場の人間関係にも恵まれているし、産休・育休も取りやすい。
そして何より収入が安定している。

転職 念願のピアノの先生に

そんな中、母の知り合いで産休中に代行してくれる講師さんを探してるとのお話があり、私に声がかかる。
母の生徒さんで、コンクールに出るような上手な生徒さんしか教えたことがなかったので不安だったが、引き受けさせてもらい、3ヶ月間金融と並行しながら代行講師として働く。
そこで教えることの楽しさ、やりがいを感じ、転職の意思を固める。
「やりたいことはやりたいうちにやらないと後悔する!今が一番若い、人生は一度きり!」と自分に言い聞かせて決意した。

周りに迷惑をかけて退職はしたくなかった(急に退職して周りが大変な思いをしているのを数多くみてきた…)ので、4年目の夏に、自分の上司に12月末に辞めることを伝える。
今まで通りの仕事をしながら、長期間かかる作業は避けてくれたりと上司の協力を得ることが出来た。
最後の出勤日には、上司や後輩が泣いてくれ、部長からはとても有難い愛のこもった手紙をいただいた。
今でも思い出すと感激する。
転職をしようとしたタイミングで、今でもお世話になっている笹山美由紀先生から、新しい教室の講師さんを探しているとのお話をいただき、そこから私の講師人生が始まった。
現在トライアングルハーモニー、あおよこカルチャーるんるん、あるもに音楽教室、各教室講師

これまでお伝えしてきた通り、私はピアノを通して挫折を何度も乗り越えてきました。
出来ないことの苦しみ、それの乗り越え方を誰よりも共感できると自負しております。
生徒さんと一緒に成長していくことが、私のなによりの喜びです。
ピアノを通して、子どもたちの可能性を広げるお手伝いをさせていただきたいと思っております。

演奏動画